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タイトルなし

本当は福島が好きさん(県外在住)
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私は、現在小学3年生と5年生の子供を持つ母親です。震災当時は福島市のマイホームに住んでいました。(新築で2004年に建てました。)私の実家は双葉郡富岡町にあります。母と弟家族が町内にそれぞれの家を持ち生活していました。震災後、母と弟家族合計5人が強制避難となり、我が家にやってきました。当時福島市は断水で、水も十分に確保できず、食料品やガソリンのない中での集団生活は、食事やトイレのやりくりが必死な毎日でした。時折 目にする原発のニュースはとてつもないことが起きているという危機感が心に広がり、今も忘れはしない、三号機が爆発した翌日の3月16日になって生命の恐怖感が湧いてきました。
それまで放射能について全く考えたことはありませんでした。
放射能で亡くなる時は、どんな苦しみなのだろうと想像し身震いしました。
しかし、高齢の母の長距離の移動や道路事情、ガソリン確保ができないなど、避難のリスクを鑑み、避難しないことを決めました。当時は、放射能についても不安を煽ると言うよりは、「放射能の数値は問題ない、落ち着いて行動して下さい」と言う報道のされ方だったと思います。当時は、「国を信じる」。そう、本気で思っていました。
しかし、その後、ネットで今までの原子力行政のあり方、原発作業労働者の問題、このような事故が必ず起きると戦ってこられた方の軌跡を知ることとなり、愕然とすることが多くなりました。それまでに日本社会で隠されてきたことが、目に見える形で、膿が浮かび上がった、そんな印象を受けました。

それ以降は、日々、ネットで知る真実と現実に起きている政治や社会の乖離にとても苦しむようになりました。安心だ、と自分に何度、言い聞かせても何度拭っても、ありふれた日常空間が、どこか違う空間に思えてならないのです。
放射能への恐怖感も口に出すことはできず、出したとしても家族の中でさえ異常者扱いされ、友人にも、さぐるように言葉を選ぶ日々。
数値として現存する放射能のストレスも心に大きなストレスを与え続けました。我が家に避難していた母を長期間、受入れをしていました。

震災前は 離れて暮す母親に優しい言葉をかけていました。しかし、そんな大好きな母親に優しい言葉をかける心の余裕が全くなくなり、メソメソする母を追い込むような暴言を浴びせるようになりました。

母は足腰が悪いうえ、震災前は毎日、接骨院に通院し、自宅のマッサージ機をかけて、体を維持していたため、一気に衰え始め、母は母で思うように体が利かないことで苦しんでいました。一番の当事者で私よりも苦しんでいるのに、つい、イライラをぶつけてしまうのです。
原発に追い込められた身内同士が、お互いを傷つけあう、そんな悪循環のポケットに陥る日々でした。
これこそが、放射能の悪魔性だと思います。
人間の五感では全く感知できないのに、線量計の数値は我が家の2階のベランダで5マイクロ以上を示しています。
長期間この状況で生活すれば確実に人体に影響がある数値です。
この不気味さと恐怖が人の心を追い込むのです。

当時は、放射能を怖い、ということさえはばかれる風潮でした。戦争時下の日常というのも、本当の心を押し殺し、表向き体制に賛成することが求められる風潮だったのだろうと思いがかけめぐりました。
自分の心に正直に生きる道を選択しましたが、強い覚悟が必要でした。
避難によるリスクさえ、覚悟せねばならず、失敗しても事故が起きても、全てが自己責任と言い聞かせました。自分の直感だけを頼りに生き抜いていくしかない、と切羽詰まっていました。

何年も培ってやっと気心が知れた近所のママ友をおいて、後ろめたさを感じながら、ただただ、こうすることでしか、我が子を守れない。きっとわかってくれるはず、自分に言い聞かせ避難してきました。引っ越しさえすれば・・・・避難することしか頭になく、引っ越してきてからは、方向音痴もあり、最低限の買い物場所さえとまどい 容易ではありませんでした。
もし、子供が学校に行くのが嫌だと言ったらどうしよう、急に夜、病気になったらどうすれば良いのだろう・・・・ふっと湧き上がる不安に心が沈没しそうになりました。
地域情報や行政サービスも自分で獲得しなければならず、でも、住民票がないゆえの片身の狭さ。知りたい情報をどう入手して良いのかわからない、歯がゆさ。
新しい土地での生活も大変でした。

先週、母の一時帰宅に同行しました。私にとっては2年ぶりの訪問です。

私の愛するのどかで優しい温かな町は死んでいました。
道路もそれぞれの家も補修もされずに、痛んでいました。
警戒区域が解除されても、人もおらず、ひっそりとしていました。
実家に到着しました。
敷地900坪、家60坪の大きな家です。
目の前は一面の広大な田園風景が広がり開放感にひたれる自慢の実家です。

母は几帳面な人でいつも畑や庭は手入れされていました。それが、畑は一面草がはびこり荒れ放題、庭にも巨大なたんぽぽや、どくだみ、クローバーなど雑草が土の表面を全て覆いつくしていました。牛が勝手口付近にきて荒らした形跡がありゴミ箱は倒れ、糞が干からびて何枚もありました。
家の中に入ると、壁や柱の下の部分の欠け・ひびがだんだん、広がり、ねずみがかじった木屑、柱の傷があちこちで目に入りました。大切な着物の上にねずみの糞が大量にありました。2年前よりも損傷がひどくなっていました。

母は一時帰宅を何度も重ねて、家の片付けをしていましたが、それでも、震災前と全く違った表情の実家でした。
ねずみの糞を箒ではくために、コタツの布団をテーブルの上に上げました。なつかしいぬくもりが蘇ってきました。正月、ゴールデンウイーク、お盆など毎月、毎年、私は何度、この食卓で美味しいご飯を頂いてきたことか。母は料理が上手で、どれほど母の手作りご馳走に癒されてきたことか。避難中の母は料理をする気にならないと、良く言います。

過去が蘇りとてもせつなくなりました。
避難準備区域で線量は低いとされている地域だが、私の積算計は2時間で11マイクロシーベルトになっていました。
最後に一緒にお墓に行きました。母は夫や義父母に何か語りかけていました。
震災前まで私は母の涙を一度もみたことがありませんでした。しかし、震災後、何度も母の涙に遭遇しています。母は私の前で泣き崩れることもあります。
母の日常を思うと、帰してあげたくなる、身を粉にしてでも手伝って家の掃除をしてあげたい。
でも、被曝が原因で将来、私に健康被害が起きたら、母も悲しむだろうし、子供のためにも私は元気でいたい。
私も、どうしていいのか、わからない。
母の人生をかけて紡ぎだした日常を取り戻すには、どうしたら良いのか誰か教えて欲しい。
こんなに、苦しんでいるのが、我が家ばかりでないこと。
どの家庭も家族も同様に苦しんでいることを思ったとき、なぜ、こういう大事なことを、世に報道しないのか。
この事故が、苦しみが、なかったことのように片隅においやられ、原発再稼動や原発輸出と言っている。

「この国は絶対に間違っている」

実際に行って感じる確かな思いである。
一時帰宅をして、湧き上がった確信である。

なぜ、苦しむ家庭に寄り添わないのだ。
なぜ、避難者の心を聞かないのだ。
なぜ、反省と検証をしないのだ。
こんな状態で日本の未来が明るいとは決して思わない。
私の故郷を返して欲しい。 
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FnnnP事務局

Author:FnnnP事務局
福島乳幼児妊産婦ニーズ対応プロジェクト(FnnnP)では、原発事故後、小さな子どもを抱えるご家族を中心に、福島県からの保養・避難のサポートや実態調査を行ってきました。同様に、 福島県内の子育て団体と協力し、実態調査を行い、明らかになったニーズに対応してきました。
(公式ブログ:http://fukushimaneeds.blog50.fc2.com/)

※なお、お手紙の掲載にあたりましては、ご本人の了承を得て事務局より連絡し、掲載の最終確認を頂いたお手紙のみを掲載しています。また、お名前や居住地等もご希望に沿い、修正や削除の希望がない限り原文通り(誤字等も含む)、全文を記載しています。

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