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タイトルなし

Aさん(避難⇒県内在住)
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お母さん、あなたならこんな時どういう選択をしたのでしょう?

あなたは、食の安全、添加物や、農薬、地球環境にも注意を払って子育てをしてくれていましたね。

いま、信じられないコトが次々と起こっています。

3.11以降見えない物に怯えて生活する毎日。一時避難もしました。

たくさん手を差し伸べてくれる方もいました。優しい言葉をかけてくれる方もいました。けれども、子供達はいつ帰れるのか、いつ家族に会えるのかと不安な表情を浮かべていました。三歳の上の子は赤ちゃん返りが激しくなり、トイレも一人で行けなくなり、おもらしをするようになってしまいました。

下の6ヶ月の子は夜泣きをするようになり、たまに会う父親に会っても忘れているのか、なつかず泣く始末。。。知らない土地での子育ては想像以上に大変でした。
福島の情報もほとんど入らず、地元はどうなっているのか知りたい気持ちでいっぱいでした。

結局、放射能の前に精神的にダメになると思い、避難はあきらめました。けれども、私はいまだにこれで良かったのか悩み続けています。

帰ってきても、除染は一部だけ。線量計を持って生活する状態。口に入る物は全て汚染されているのではと疑い…線量を測りながらと不安はつきません。事故直後、母乳と下の子の尿検査もしてもらいました。下の子の尿検査の結果内部被曝していると言われました。ショックでした。
けれども、そんな時いい出会いがありました。食べ物は信用できる所から買い、子供には食べさせるようにしました。

休みの日はなるべく線量が低い場所へ出掛け外遊びをさせてあげるようにしています。
子供は外遊びが大好きだから。

弱音ばかり吐いてはいられませんよね。苦しんでいるのは自分だけではない!今の置かれている状況でいかに上手に生きれるか、そう自分に言い聞かせて…

でも、ふとあなたならどんな選択をしたのだろうと考えます。


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「娘たちへ…」

しーさん(県外避難⇒県内在住)
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娘たちへ…
あなたたちを守りたい。ただただその一心で生後5ヶ月の妹を無理矢理おんぶして、2歳4ヶ月のお姉ちゃんをベビーカーに乗せて郡山の家を出てから2年近く。大好きなお父さんと離ればなれの避難生活、本当によく頑張ったね。半年の間に8回の引っ越しを繰り返して、時には120世帯を越える家族との共同生活。まだ聞き分けもできなくて、でも他の人に迷惑にならないようにならないように…と家にいたなら、お父さんと一緒だったら叱らなくてもいいようなことでたくさんたくさん叱ってしまって…それでもお母さん大好き!と胸に飛び込んできてくれるあなたたち…たくさんたくさん我慢をさせましたね。 母子3人での避難生活に区切りをつけて、郡山の自宅に戻って5ヶ月近く。もう、静かにしなさい、走っちゃダメ、なんて言わなくてもいい、リビングを走り回って大声で笑って、お父さんにたくさん甘えて、家族が家族らしくいられる場所に居ることのありがたさを痛感しています。でも…寝る時、毎晩のように「ずっと郡山?」と不安げな瞳であなたたちに訊かれる度、どれだけの我慢をさせてきたのだろう、と胸がキュンとします。お天気がよければ庭に出て芝生の上を転がって、ウッドデッキで昼ご飯を食べて…そんな何気ない日常の幸せを全部奪われてしまって。誰を責めたらいいのか…ひとたび事故が起きれば誰も責任を取ってくれないことを痛感する毎日。一歩外に出れば、風の強い日にはマスク、放射能オバケがいるから石も葉っぱも花を摘むこともできない、公園で遊べない、自転車にも乗れない暮らし。幼稚園が変わったお姉ちゃん、園で描いてきたバスの絵。これは誰?と尋ねると「りんちゃんでしょ、かのんちゃんでしょ、あゆなちゃんでしょ、ふみくんでしょ…」描かれたお友達を指さしなっがら、新潟で仲良くしてもらったお友達の名前をニコニコしながら挙げるお姉ちゃんに、親として郡山に戻るという判断は本当に正しかったのかと涙がボロボロとこぼれました。戻ってきたという決断が揺らぐとき、育ちの森のHさんの言葉を思い出します。「みんな、今、一番ベストな道を考えて選択してる。この選択こそがベストなんだって思って、その選択に自信を持って」郡山に戻ることを決めたものの、気持ちが揺らいでいたお母さんに、Hさんはそう言ってくれました。新潟で苦しかったとき「いつか振り返って、あのときは大変だったけどがんばってよかった、って思う日が必ず来るから」と言ってくださる方も居ました。すぐ逃げてきて!と自宅に呼んでくれた伯母ちゃん。避難する那須塩原駅でエレベーターが動かなくて困っていたときに階段を下りて来てベビーカーごとおねえちゃんを担ぎ上げてくれたおじさんたち。あなたたちを抱っこして新幹線の車内を移動する度に「どうぞ」「どうぞ」と疲れ切っているのに席を譲ってくれようとした人たち。埼京線で「がんばって。おかあさんもがんばるのよ」と手を握りしめてお菓子を渡してくれたおばさん。木琴や絵本やDVDやおやつやお洋服や…あなたたちが少しでも笑顔になるようにという気持ちも一緒に送ってくれた、香港、北海道から広島までの全国の育児仲間たち。行く先のない私たちに無償でおうちを提供してくださったYさん、Cさん。悩みを聴いてくれていつも励ましてくれた一緒に避難していたママさんたち…もうここには書ききれない多くの人たちに支えられて励まされて、今ここにあなたたちとお母さんが居ます。苦しくて大変な日々はこれからも続くけれど、いつもあなたたちを心配して、お母さんを励まし支えてくれる方がたくさんいること、その存在自体がお母さんに勇気をくれます。みなさんに助けていただいたおかげで今の自分があること、そういう方々に元気でやっていますと笑顔で胸を張って成長の報告ができるような人であってほしい。とても返しきれないほどのご恩。困っている人が居たら、悩んでいる人が居たら、遠くでなくてもかまわない、隣の席のお友達、同じクラスのお友達…身近なところであなたたちのできる範囲で、励まして勇気を与えることが出るような存在になって欲しいとお母さんは願っています。そして2年近く、都合がつく限り、週末に何百kmも運転してあなたたちの所に通ってくれたお父さん。本当に本当に、お父さんの支えとがんばりがなかったらお母さんもあなたたちも今ここにはいられません。お父さん本当にありがとう。家族が家族らしくいれる場所で、今できるベストを、お母さんも尽くしていくつもりです。あなたたちを守りたい。ただその一点に立って、お母さんはこれからこの街で生きていきます。


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Happinessママさん(県外在住)
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県外に避難し借上住宅に済んでいます。就園前の子供がいます。心配なのは、子供が福島から来た子と差別されないかということ。

2年前引っ越して来た当初、車の「いわき」ナンバーを見て、眉をひそめている人達がいて、辛くなってしまったので、これからが心配で車のナンバーを変えました。

今は子供が小さいので、親子だけで過ごす時間が多いので、避難前と環境はさほど変わりません。でも幼稚園、小学校へ進んだら、いつまでも避難者であることを黙っているわけにもいきません。

母子手帳は、被災地名が書いてあるし、戸籍も前の被災地のままです。(そのうち戸籍変更したいです)

育児サークルでも未だに避難者だと打ち明けられません。反応が怖いです。でも、きっとその時が来ます。不安です。

現在アパートは家賃免除、医療費も免除。とてもありがたいですが、周りの方はどう感じているのでしょうか?通院の旅、迷惑がられているのでは?と気になって仕方ありません。

一生、避難民という負い目を持って過ごさなければならないのか心配です。被害者意識が強くなってしまったような気もします。

子供は、あのときまだ0歳でした。何も知らないのです。今でも放射能の存在を知らないのです。地震には異常に怯えていますが、これから成長するに従って余計な辛さを味あわせたくありません。

また万が一、放射能が原因で病気になってしまったら、家族で非常につらい思いをするでしょう。

日本の皆様、絆という言葉を使うなら、福島から避難している、また福島にいる子供達を温かく優しく見守って、接してくださると嬉しいです。

(周りには、親切にしてくださる方がいらっしゃいます。私が過剰に心配しすぎているだけかもしれません)


「私たちの避難生活」

Bさん(県外在住)
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私たちの避難生活
私たちは3月11日自宅に居ました。家が老朽しておりくずれる事を恐れ外へ出ました。近所で瓦が落ちて軒下の車を直撃しているのを見て家の入り口から車を縦に並べ、車内でゆれに耐えていました。地震から30分後位から町から海の方へ行く車がひっきりなしに走っていきました。
会社勤めの人たちが自宅の事が気になり家に戻っているんだろうと思いました。
私達の仲人であり、いつも野菜を頂き、公私共にお世話になっている--さんも自宅の前の道を海の方へ戻って行きました。近所の畑にいたのでしょう。軽トラックに夫婦で乗り、まわりの家の被害の様子を見ながら帰る--さんを見たのが、最後の姿になってしまいました。残念ながら、--さん、--(奥さん)さんは津波に流され亡くなってしまいました。--さんでは嫁さんの--さん、孫の--君、--君、--ちゃん6人が犠牲になってしまいました。--さんの生産した完熟トマトの甘い味はいつまでも忘れません。夜布団に入り寝る前にいつも--さんの事を思います。2年たった今でも。

3月13日からは福島市の親類の方に避難しました。義父が認知の為、一般住宅では困難になり--さんの紹介で保原なじみの里に入所できました。3泊もお世話になりました。支援物資の洋服やジャンパーなどとても役立ちました。
なじみの里のスタッフの皆さん、--家の皆さん、やさしく迎えて頂きありがとうございました。

3月18日私たちは福島市から--へ向かって一般道をひたすら走っていました。--県に入り少し緊張がほぐれた頃、空腹に気がつきました。4時頃だったと思います。食堂で昼食をと思い道の駅さとみの里に寄りました。係の人に本日の食堂は閉店した事を告げられました。ベンチで休んでいると、スタッフの方が残ったごはんでおにぎりをつくってくれ、売場のおみやげ用味付けのりも持って来てくれました。妊娠9ヶ月の二女と高校1年の三女。85歳の義父と私の4人でその場でありがたく、おいしくいただきました。
さとみの里の方々のあたたかいやさしさに今でも感謝しています。おにぎりと味付のりのおいしかったことはずっと忘れないでしょう。本当にありがとうございました。

--市の生活は、二女の出産を受け入れてくれる病院や高校1年の三女の転校、認知症の義父が入所できる施設捜しなど、とても忙しい毎日でした。二女は4月5日無事女の子を出産しました。が、なぜかカンガルーケアも無く産室の様子が少し変でした。この病院では初めての事らしく、生まれた孫は先天性四肢障害でした。右手のひじ関節から下が欠損しています。まわりのショックは大きく色々考えましたが気にしてかくすより、明るい元気な子に育てることが大切と思う様になりました。現在2才になりますが、元気にすくすくと育っています。二女夫婦は震災前、原町区内にアパートを借り、長女の誕生を待ち望んでいました。
二女の夫は、夫の両親が避難した福島市で両親と同居し、二女と孫は私たちの避難先である水戸で生活しています。放射能の高い福島市より--で家族3人生活したらよいのではと私達は思っていました。でも夫は両親の元が居心地が良いらしく、二女と生まれた娘にはあまり会う事も無く今日に至っています。原発事故離婚となりそうです。生まれた孫に父がいない事はかわいそうなので、やり直してほしいと私は思っています。

長女は原町区内に嫁ぎ、2人の子供がいます。塾を経営していましたが、兵庫県に避難していて先輩が紹介してくれた塾に勤務しています。長女も二女も実家から遠くなく近くもなく孫達が遊びに来れる距離に居れたはずなのに、今は遠すぎたり近すぎたり(笑)
これも原発事故が原因です。

避難前は23年4月着工で自宅を新築予定でした。その計画はストップしたままでこれからの予定は未定です。
24年8月頃実とで主人がチラシを持って来ました。セキスイハイムモデルハウス売却セールに「どうせ当たらないだろう」とあきらめ半分で応募しました。なんと4200通の1通で当選してしまいました。言われ土地を買いました。来年には新築住宅が出来る予定です。

一番苦労しているのは、孫が誕生してからの書類提出です。障害者の手続きが毎年あり親が別居している事、避難している事など、福島市役所の人たちは理解しようとせずうたがっている様な感じです。弱者に手を差し延べるのが本当だと思うのですが、事務的でまったく人間味を感じる事ができません。手続きがとどこおってる状態です。

震災以来、私達のまわりでは、孫の四肢障害やモデルハウス当選など、ありえない事がおきています。これからどう生きていくのはまったく未定です。家が少しだけ海から離れていた事で命びろいしたと思っています。命があればどこでも生きていけると思うし、前向きに明るく笑顔があれば、道は開けると思っています。


タイトルなし

ゆかさん(県外在住)
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震災から2年なんですね…
私にはまだあの当時のままです。
自宅の除染も全くしていませんから。

いくら放射線量が高くても、その数字を詳しく知ることがなければ、食べ物が汚染されているかもしれないなんて、いちいち深く考えなければ、何も変わらない生活をしていられます。

でも、こんな桁の放射線量を、本当は浴びながら生活を続けていてはいけないという事実を知ってからは、平常心で生活などできません。

子どもがいたら、尚更。でも、解っていながらも生活を続けるしかない人もいます。

この状況は、その立場にならなければなかなか伝わる事がないかもしれません。動ける人と動けない人が生まれ、分断もあちこちで起きてしまう。

復興が先だって、除染が進まないのにもかかわらず地元に戻そうと頑張っている行政。

そうしないと、丸く収まるものも収まらないから、騒ぐなと言うのでしょう。

悔しいですが、私達の声は小さすぎてなかなか届きません。
こういった現状は、今後どこの原発が爆発しても殆ど変わらず、むしろ避難区域を狭めてしまうのではないかと危惧します。


プロフィール

FnnnP事務局

Author:FnnnP事務局
福島乳幼児妊産婦ニーズ対応プロジェクト(FnnnP)では、原発事故後、小さな子どもを抱えるご家族を中心に、福島県からの保養・避難のサポートや実態調査を行ってきました。同様に、 福島県内の子育て団体と協力し、実態調査を行い、明らかになったニーズに対応してきました。
(公式ブログ:http://fukushimaneeds.blog50.fc2.com/)

※なお、お手紙の掲載にあたりましては、ご本人の了承を得て事務局より連絡し、掲載の最終確認を頂いたお手紙のみを掲載しています。また、お名前や居住地等もご希望に沿い、修正や削除の希望がない限り原文通り(誤字等も含む)、全文を記載しています。

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