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タイトルなし

いわき大好きママさん(県内在住)
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福島に帰ってきた日、
夫は「俺のせいで、いわきに帰ることになってごめん 俺がいわきで仕事することにならなければ、 ママや子供たちが被曝することもなかった。これからも。。」と涙ながらに語ってくれました。

夫はいわきに帰ってきてほしくないけど、妻や子供たちの綱渡りの生活をみて、 これ以上は、無理だと思ったようです。

なぜ泣くのだろうとおもいましたが、落ち着いてから、いろいろ調べているうちに私と夫に知識の差が大きかったことがわかりました。 夫からは、ちゃんと調べろといわれたけど、私は毎日の生活が手一杯で、ネットもなかったし、あんまりにも意見が合わないから、離婚も考えたことがあります。

テレビや新聞の情報だけがたよりで、放射能のことをほとんど調べませんでした。夫は、いわきにいたから、口内炎がよくできたり、異常性を肌でかんじていたようです。 子供や私に下痢が多かったですが、いわきに帰りたくて、避難のストレスだと思っいたかった。最近、本当はどうなのだろうと思うようになりました。

2011年12月に東京でホールボディーカウンターを受けたら、二人の娘からセシウムが検出され、一人は定期検査をすすめられました。なぜ、定期検査を勧められている娘をいわきに返さなければいけないのか?

当時、いわき放射能市民測定室がやっと立ち上がり、有料で、意識の高く、時間的、金銭的に余裕のあるほんの一部の人しか検査できませんでした。ほとんどの人が初期被曝の事実を知らないところで、年間100ミリシーベルトでも大丈夫と言っている、県内の医療機関を束ねる県立医大の元にあらゆる対策が取られているところで子供たちを守るのは、とても大きな流れに逆らうこと。とても勇気がいるし、子供たちを孤立させてしまう。
なぜ、こどもを放射能から守ることが難しいところにわざわざ帰らなければいけないのか?

私もそうだったように、国や県の言うことをきいて、穏やかに前向きに生きようとしている人達にとっては、耳をふさぎたくなることだろうな。大きなお世話だ。私は、福島に帰ったら、口をつぐむしかないと考えていました。

納得いかなかったが、帰るしかありませんでした。 被曝より、パパと一緒にいることを選んだんだ。 家族の時間が増えることで、家庭に笑いが増え、免疫力があがることを祈るしかなかった。

ここ(東京)に居たくない、福島に帰りたい、パパと一緒に暮らしたいと叫ぶ、子供たちの気持ち。 家族がバラバラというのは、不安定です。子供たちは倍以上病気になりました。 夫も休みを取り、毎週のように東京にきていて、疲れていました。仕事のミスも増えました。

運よく私に仕事が見つかっても、毎日のように続く病院通いでほとんど収入にはなりませんでした。 高速道路も有料になるし、これ以上の出費はきつい。 保育園は新年度から、一般区民と同様に審査され、選考に落ちたから入れない。 もう無理だな。 「どうして私たちがこんな思いをしなければいけないのだろう。地震と津波だけだったら、ここにはいないのに」と何度も自問自答しました。体がむしばまれる前に、心がむしばまれると思った。

私達をみんなは好意的に迎えてくれて、ありがたかったです。

いわきに帰ってきて1月たったころから、眠れなくなりました。 人と話すと涙が止まらない。頭が重く、全身が痛く、体が動かない。 家事と子育てもままならなく、部屋を暗くし、ほとんど横になるしかありませんでした。 そんな生活が1年続いていました。

避難している人も、避難から戻ってくる人も、同じような症状を訴えている人いました。。
残ることを選んだ人も、めまいなどを訴えていました。

幼稚園や小学校では、インフルエンザや感染性胃腸炎などがはやり、行事ができなくなった。 震災前は、こんなに大流行することがあっただろうか。 放射能により、免疫力が低下したからではないか。そう疑うこともある。 風邪をひいただけでも、ここにいることがいいことなのか、自分を責めてしまう。

福島県の健康調査には、甲状腺癌しかとりあげていないが、 べラルーシのように年に2度、大人も含め、血液、尿、目、内科、内部被曝検査、加えて心も調査対象にしてほしい。県の健康調査は安心を与えるもので、予防的な要素がない。

鼻から、放射能の可能性を否定している。ホールボディーカウンタも入っていない。カウントされないから、因果関係を説明できないのではないか。

甲状腺癌は治せる病気だというけれど、3才で甲状腺癌を発症した少女は、治療の副作用で、妊娠できなくなり、恋愛、結婚、出産ができないと、希望を持てず、18歳になって、鬱になって、カウンセリングがかかせないそうです。

体の病気だけでなく、心への影響も考えてほしい。

放射能の心理的ストレスによる体調不良と呼ばれているものも、 放射能がそこにあるのが原因である以上、ちゃんと健康被害とみとめてほしい。

どうして、個人の問題にされてしまうのだろう。 放射能は「目に見えない被害」をここにももたらした。

いわきは県内では、放射線量は低いといわれてしまう。 しかし、事故当初、最大のヨウ素が降ったのはいわきです。(『NHKスペシャル シリーズ東日本大震災 空白の初期被ばく』より )最大のヨウ素が検出された児童もいわきの子です。 でも、半減期が短いので、その証拠が放射線マップには残らない。 これから、症状が出た場合、どうやって証明したらいいのか。 いわきと同じように初期被ばくを経験し、同じような低線量汚染地帯のベラルーシでは、 今でも、保養や年に2度の多項目にわたる健康診断を国費で実施し、それでも、健康被害はでているというのに。

そして、避難すること、とどまること、それぞれの苦渋の選択の支援も先細っていくのだろうか。

長崎、広島の原爆被害者は、被爆者であることを隠していたという。 仕事、恋愛、結婚、出産、さまざまなことで差別をうけるから。
私も、娘がホールボディーカウンターで数値が出たことを言い出しにくい。いわきの人の多くは、検査が遅れたため、数値がでない。私の娘は「被爆者」で、検査が遅れた人は「被曝していない」となるのだろうか。

ほとんどの人が初期被ばく、恒常的な内部被ばくの事実を知らない中で、今の空間線量だけをとって、もう安心だと普通に暮らしている(暮らしたいのだろう)。私は、数値を持ってしまい、隠し事をしているような後ろめたさがある。

避難できたので、大量被曝を抑えられている。でも、残らざるえなかった人は、それを知ったらどう思うだろう。教えてあげたほうがいいのかな、波風たてないほうがいいかな、そんなことを考えていると、人と話すのが億劫になった。

保護者から声をあげてと言われても、放射能を気にする、しない、電力関係、農業、漁業、庭で育てたものを食べるのを生き甲斐にする、避難していた、避難していない、ここに避難している家庭など、状況が違うから、おおっぴらには話せない。

初期被ばくの事実、低線量被曝の可能性があるとするか、ないとするかでは、危機感がまるで違う。

福島に住むことを決めざるえない以上、お互いに不快な思い、不安な思いをさせたくない。

匿名の自由記述のアンケートを学校がとってほしい。こんなに人間関係を複雑にさせといて、これも被害にならないのかな。

福島の人が多く受けている放射能講座は、ほとんど放射能は安心だというもの。放射線の影響で、細胞分裂しやすい組織でのガンのことを語り(修復されるから問題ない)、ほとんど細胞分裂しない組織のことは語られていない(修復に時間のかかるので、修復される前に細胞が壊れてしまう)こと。

長崎や広島では、事故後5年たって、ほとんどの人が亡くってから、生き延びている人に対して健康調査している。

チェルノブイリでも、IAEAから助成がでて、出生前診断が無料で行われ(日本では25万円かかる)、先天性異常がわかったら堕胎費用もでるという。このように、データ自体、隠ぺいされた形跡があり、データと扱っていいのかもわからないのに、これで安心だといわれても、納得がいかない。

いわきは「安心」で無策となるのだろか。

この福島県の状況を人権侵害と言ってくれる人は近くにいない。法律家、市民活動団体がもともと少ない。何もできないママでごめんね。

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「帰郷にあたり思う事」

門馬佳織さん(県外避難→県内へ)
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帰郷にあたり思う事

 那須塩原に3月に来てから2年4ヶ月が経ち、8月のお盆前に帰郷することにした、3人の女の子を持つ自主母子避難の母です。
 先日の宇都宮大学の清水先生のお話を聞き、帰郷を決めた事で直面した事を同じような避難している方々や福島原発に関心を持ってくれている方々に伝えようと思い、手記を書く事にしました。
 まず最初に戻りたいと思ったきっかけは、避難当時2ヶ月であった三女が2歳3ヶ月になり、私自身、二重生活の経済的負担と、社会復帰をする事で精神的不安をなくしたかったので、那須塩原の保育園への入所を考え、役場へ行ったのですが、住所は福島県のままでいたため、自主避難している私たちは、煩雑な手続きが必要でありかつ、保育園入所まで早くて期間は2~3ヶ月かかるであろうとの事で、自分の中でもうダメだ。こんなんじゃやっていけない。さらに不安は、体調面にも出てきて、子どもの世話だけで、何もできなくなるほど、動けなくなってしまいました。
母親として子供の前で動けなくなる事に、何度、情けない、ダメな親だ。自分を罵り、でも3人の我が子を残して自分が逃げるような事があってはならないと必死に、体を動かし、不安を忘れようと、親業にしがみついてました。それが今年の3月です。本年度は、主人が、お金は何とかするから、「那須にいろ。」と一点張りで、子供のことを思っての避難でしたが、私自身が、一人で何か心配があってもすぐ困った時に相談できる人間関係を作れていなかった事が、一人で知り合いのない地域に何も言えず生活していたと後ろ向きの考えになってしまった原因であったと思います。
 たぶんこんな時、父親である主人に、何気ない事も会話をしていれば良かったのですがお互いに、一人で地域の付き合いから今までやらなかった家事をこなしながら、仕事へ行く事で手一杯、とても、話をしても、会話どころか、お互い疲れきっていて、すぐにつまらない事で争うようになり次第に、理解されないだろうからもう話したくない。避難で起こる、閉塞感や孤独感さえも、避難できてない人に比べれば、文句を言う方が、おかしい。私さえ黙っていれば、それで、子供達が少しでも健康でいられる。そう言い聞かせてました。
そんな時、小3年の長女が、「もとに小学校へ行きたい。」ポツリと言ったのです。
○○で友達がいなかったわけではないのですが、
「何時になったら帰れるの?私の入るはずだった小学校に、幼稚園の友達はいるのに、何時まで我慢するの」
子供なりに、孤独だったのに、気づいていながら黙殺していた自分が、大人の都合で、突然居場所が変わり、子供の為と言いながら、子供と向き合ってなかったのがとても、切なくて悲しくて、やりきれませんでした。
 なんとかしなくては、と思い、主人に福島へ帰りたい事と、母子避難が、精神的に苦しい事があるし、元の場所へ帰れないという決定的な諦めがなくて、那須へい続けるのは、もう無理と話しました。
夫の返事は、「ただ、除染が終わってなくて、もう少しで順番が回ってくるから、自宅除染が終わってからくれば?」何か素気ない感じがしました。家族の絆が別居しているだけで、こんなに遠いものなのか、心の距離まで遠く感じて、母である事より、夫婦でいる事さえも、原発事故が、きっかけで壊れかけて不安になりました。
 程なく、自宅の除染に、土木会社が、見積もりを出し、計画書を見たのですが素人には良くわからず、とりあえず表土をはぎ、土を入れ変える事は理解しました。作業は4日間自宅に日中は人がいない為、近くの親戚に、細かい希望を作業員に伝えてほしいと、お願いしました。除染後、自宅へ帰ってみたら、草1本もない、きれいな庭になっていて、玄関前のコンクリートも洗浄されていました。砂利道もしかれて立派なのですが、そこにある古い住宅が、とても不自然に見えました。
 作業の立会いになってくれた親戚が、自宅の裏手が、雨がふると排水ができなくて、沼のようになる。その水位の後がくっきり残っていたのです。私は、自宅に水が入ってきて築140年の土台は、地震で傾いたままで、石の上に木造宅が乗っている。いつか、土台が腐るのではと、心配でしかたないのですが、家族が立ち合ってないのと、やり直しの為に工事費がかかるのが、主人は、納得いかず。除染のせいで、地盤が雨の度にぬかるみ、裏手の山の崩落さえも起こり兼ねない結果になりました。莫大な、除染に対する予算もこれではもったいないし、市町村によって、除染範囲が、自宅中心に10メートルだったり、田村市では、自宅中心に20メートルで木の伐採も含む広範囲とだいぶ違いがあり、不公平を感じるのです。

 そして、社会復帰の最大の条件である、保育園は年度途中の為入所ができず、待機児童になりそうで、話によると、保育士が足りず原発避難の町の児童も受け入れて人数が、目一杯な上に、施設を増やす予定もないとの事でいた。元々、保育園が、足りなかったのは充分知っていたつもりでしたが、私の地域は人数の少ない保育園だったから、空きはあるだろうと思っていましたが、保育士を仮設住宅近くの保育園へ多く配置するので、小規模な園は保育士を減らされてます。市で保育士を募集していると聞き、なんとなく求人票を見たら、臨時職員となっているのです。これでは、保育士は集まりません。保育園の入所問題は、生活に不安な状態の避難している人々と受け入れた自治体の住民の軋轢が出てくる原因になると私は思うのです。

 震災から2年4ヵ月が経ち、避難している人に対する想いが変化してきている時期に入っていると感じてます。
 福島県内外でも、社会保障や社会福祉や医療の格差で不満が出ていると聞きました。私も幾度となく何故違うのかとがっかりした事がありました。同じ福島県民なのに・・・。
 その中で福島へ戻る事が、一番自分達家族が悲しい思いをしないで済むと考えたのですが、放射能以外の心配や不安が、あまりにも多いのです。
 戻った所で受け入れ先が整っているわけではなく、自己責任で決めなくてはいけない事が多いのです。大人でさえ、不安なのに、転校をする子供達の心はどれだけ辛いでしょうか?心配は尽きないのですが、今よりも、状況がよくなるであろうという希望だけが、唯一の救いです。けっして安全ではないし、今までと同じように田畑で作った作物を子供達の口へ入れてやる事ができないのですが、それでも、主人の仕事や地元の付き合いや、田畑がある限り、やはり、戻るしか選択は、ありませんでした。

 私は、ただ普通に当たり前の生活がしたいのです。子供達が何の心配もなく学校へ行けて、夫婦が一緒に過ごせて、家族や知人が時々訪ねて来て、自分の田畑で作った野菜をほおばりたい。それだけなのに、諦めないで頑張る選択は、福島では、とてもとても、叶わない望みになってしまったと思います。
「さすけねえべ、さすけない」
私は、心の底から大丈夫なんて言えません。原発被災は、納得のいかない被災と私は断言してます。家も田畑もそっくり残っていたのに、土地から追いやられ、時が経つにつれて荒れて行く住処を見て歯ぎしりを立てながら涙がこぼれるのです。2年も耕作していない田んぼは、あぜ道は、もぐらで穴だらけ、水路は猪の水浴び場になり、1メートル以上の草で覆われ、かつての美しかった里山風景が荒地になってます。何年かけてでも、元に戻すとなると気力体力時間資材全て、足りないと悲しくなってしまいます。
 
しかし嘆き悲しむことを当事者なら皆思ってます。私達は、生きていく為に働かなくてはいけないのです。何とかしてなくてはいけないのです。子供の為、地域の為、自分の為に働かなくてはいけないのだと覚悟を決めて戻るのです。その術を今、模索してます。

 補償ありきの被災者ではなく、知恵をしぼって受けた補償を大切に使うことが大事です。

私は、訪問支援の方々に自分立場や話に共感してもらえたことで、何をやらなくちゃいけないか、何回も自己確認が客観的に出来たし、本当に感謝してます。話す事で、何が必要かわかってきたのです。
 自立へ向けて何が今必要か?福島へ戻る家族の絆のもちろんですが、困らないように社会福祉や就業や就学支援や、お母さんが、一人で全て抱えて悩まないように、避難先で手続きをまとめたリストなり相談窓口を、設置してあったら助かると思います。それぞれ避難元の役場によって違うと思いますが、身動きがとれる元気なお母さんばかりじゃない。色々な人がいるので、せめて、帰郷後の社会復帰支援の窓口をもちろん保育園入園も込みで支援してほしいです。戻る選択をした人々をきちんと受け入れてほしいです。
 「ただいま、大好きな福島へ帰ってきたよ」と笑顔でこれから帰郷したいです。何の心配のないわけないけど、せめて普通に自宅での生活再建をしたいです。
 私の思う所を文にしましたが、もっと大変な人々もいると思います。だから、それぞれできる生活を一生懸命、迷いながらでもかまわないから送ってほしいし、私自身そうでありたいと願ってます。

2013年7月17日

「今、あなたに伝えたい・・震災2年後の「フラメンコ発表会」」

Fさん(県内在住)
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今、あなたに伝えたい・・震災2年後の「フラメンコ発表会」

2013年4月28日(日)、郡山市民文化センターで開催された「エミ・フラメンコアカデミア発表会・・TRADICIONAL―伝承―」のステージは、満員の観客を魅了した。

3年ぶりに開催されたこの発表会は、通常であれば昨年開催されるべきもの(2年ごとに開催)であったが、2011年3月11日の「東日本大震災」の影響で郡山市民文化センターも甚大な被害を受け、昨秋やっと改修工事が終了したばかりであった。

フラメンコクラスの中にも、震災後の原発事故の影響や福島に対する風評被害の大きさに、全国各地に避難したり、身体の不調を訴えたり、精神的に落ち込んだりして辞めていく仲間も出てきた。

一人ひとりが「このままフクシマに残っていていいのか?」「フラメンコを踊っていていいのか?」と自問自答しながら悩み続けていた。

エミ・フラメンコアカデミア講師のS先生は当時2歳の子を抱え、郡山市から県内一放射線量の低い南会津に引っ越そうか・・と本気で考えていたが、通常でも車で片道2時間はかかるうえに、冬の会津は雪が多く、郡山の教室に通うにはあまりにも不便であるために断念したと私に話してくれた。

その先生が2012年春、家族(夫と子ども)3人でスペインに旅立った。

たくさんの悩みを抱えながらの渡西であった。

そのスペインでは、「フクシマから来た」と言うと誰しもが心配し、力づけてくれたとのこと。

先生はこのことを「好きで始めたフラメンコ。震災前はなんの疑いもなくフラメンコを夢中でやってきましたが、震災後、フラメンコをやっている場合なのか?私にとってフラメンコってなに?フラメンコで子どもの生命は救えないなど、フラメンコが好きなのかさえもわからなくなっていた私に、スペインの人々は好きなものに理由はない。歌い、奏で、踊る。ただこれだけ。ここに来たらみんなfamilyだ、と言ってハグするバルのおじさん。いいよ・・と言うまで歌い続けるカンテ(歌)のおじさん。フラメンコを通じて、勇気づけてくれました。なんとも言えない温かい気持ちに包まれました」と書いている。

2か月半後に帰国し、またフラメンコ教室を再開した先生は「2013年春に発表会を開くよ、頑張ろう!」と力強く私たちに宣言し、その思いを「スペイン紀行」6曲に表現し、全生徒が一丸となって取り組んだ発表会。

フィナーレは「I LOVE YOU 福島 &フラメンコ」を全員で歌い踊り、さらに会津の「起き上がり小法師」を会場にプレゼント・・という演出に、観客から惜しみない拍手と声援が贈られた。

東京から来てくれたアーティストの皆さん(ギター・カンテ計3人)も、「この発表会に出演出来てよかった」と言ってくれたそうな。私たち一人ひとりも本当に感激して、こみあげてくるものがあった。

私自身、フラメンコを習い始めて20年になる。今まで何回も発表会などは経験してきたが、今回ほど、素晴らしい・・と自分で震えを感じた発表会は初めてであるし、見に来てくれた友人たちも「感激した、すごかった」とすぐに連絡をくれた。こういうことも初めてであった。

私は、震災後すぐ病後の夫(胃がんで全摘)を連れ、少しでも放射能を避けようと、山形市(夫の実家)と藤沢市(長女が居住)に避難した。しかし、東京から郡山への高速バスが運用されたと聞いて、矢も楯もたまらず郡山に帰ってきた。いくら身内とはいえ、自宅で過ごすようなわけにはいかなかったのだ。

近所に住んでいた長男の家族は、山形市に母子避難(長男の妻、孫2人)をしている。長男は仕事の都合で郡山に残り、週末に山形に会いに行く生活が1年半以上続いている。孫たちは山形市で、小学生、幼稚園生となった。自主避難者の高速道路無料化がやっと最近になって認められたが、経済的にも精神的にももう限界ではないか・・と思う。

フラメンコ発表会を通して自分自身がどうだったのか・・改めて考えさせられた。

「今だから言える当時の出来事と2年たっての今の想い」

河村幸子さん(県外在住)
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今だから言える当時の出来事と2年たっての今の想い

2011年3月11日、地震が起きた時、私は福島県三春町にいました。町内の会社に勤務し、両親と私の3人家族で、とても住み心地の良い三春町で楽しく暮らしていました。幸せな穏やかな毎日を送っている最中の大震災は、一気に私たちの幸せな生活を奪い不安にさせ、悲しませ、苦しませ、何とも言葉に言い表しようもない思いにさせられました。

仕事中に起きた地震は、まるで悪い夢にうなされているようでした。地震の揺れは大きく、これほどまでに自分の死を意識し、ここで今自分は死を迎えるかもしれないと思ったことはなかったと思います。それくらい地震は大きく、沢山の人を犠牲にし、悲しみをもたらしました。この悲しみは地震だけでなく、その後の原発事故がさらに福島県民を苦しめました。「原発が危ない」その情報を聞いても全くピンときませんでした。自分の住んでいる県に原発があっても、離れているし、みんなほとんど知識がなく、当初はテレビで言っていることを信じるしかありませんでした。「ただちに人体に影響を及ぼすレベルのものではありません。」この言葉を何度も何度も聞き、一方では放射能は危険だと聞き、どうしたら良いのか分からず、右往左往していました。このままここにいた方がいいのか、それとも少しでも原発から離れた所に避難した方がいいのか、その時は、どれが正しくてどれが間違っているのか分かりませんでした。原発が爆発した日も、食料もガソリンも灯油もなかったので、必死の思いで父と探し回り、ガソリンスタンドに並び、親戚の家に行き、ずっと外にいました。3月15日の雨にも危険だと知らずに浴びました。爆発後一番危険だと言われた雨です。

この時、郡山に住んでいた私の婚約者は危険を察知し、いち早く福島県を脱出しました。地震のあと、連絡が取れなくて心配していましたが、連絡が取れた時には大阪へ避難を決めていました。私も一緒に行こうと言われましたが、ここにいると決めた両親を置いては行けないし、もともと体調のあまり良くない父のことも不安だったので、「私は行けない。一人で逃げて。」と言いました。私たちは離れ離れになりました。原因は言うまでもなく放射能という問題です。今は結婚して西宮で新たな生活の基盤を作ろうと二人で頑張っていますが、この結婚に至るまでには、相当な苦労がありました。2011年11月に入籍するまで、ずっと言い合いの日々でした。その言い合いというのは、「私は福島で暮らしたい。私の両親も兄夫婦もかわいいかわいい甥も、大切な友達も親友も、好きなお店も、今まで慣れ親しんできた町も、たくさん遊んだ自然も、私の人生そのもの、お金では買えない私の宝物すべてを置いて関西には行けない。行きたくない。」という思いと、主人の「放射放射能がある中で子どもを育てるのは賛成できない」という意見の対立が何度も何度もあり、「関西に来ないんだったら結婚はない。俺は福島には行かない。」とずっと言われ続け、震災から2年たって母子避難されている夫婦間で、今問題となっている離婚と同じように、私たちは震災後すぐにこの問題にぶつかりました。福島にいたいけど放射能問題がある。結婚もなくなる。でも両親を置いていくこともできない。入籍するまでの8ヶ月間ずっと苦しみました。その結果、両親を兄夫婦に預け、私は関西に来ることを決めました。2011年12月下旬から西宮に住み始めました。福島を離れての生活は、知り合いも友達も話す人もおらず、全く知らない土地で出かけることさえも怖くて、2ヶ月ぐらいは家に閉じこもりっきりでした。放射能から逃れた安心感よりも寂しさや辛さの思いの方が強く、福島に戻りたいと心の中でずっと叫んでいました。今でも福島が大好きなので、戻れるのなら私は戻りたいです。でも戻れないのが現状です。冷静に考えると食べ物や生活面において、福島にいる時よりもそれほど放射能を気にしなくてもいいので、これで良かったのだと少しずつ思えるようになってきましたが、両親も兄家族もみんな今は線量の高い本宮市に住んでいます。住んでいる環境も不安だし、水や食べ物も不安です。きっと汚染されているものも口にしているかもしれません。避難すればいいのにと思う方もいらっしゃるかもしれません。でもしたくてもそれぞれの家の事情で出来ない人も沢山います。ですが、この現実を受け止め、受け入れ、不安ながらも仕方なくそこに残って生活をすることを決めた人たちも沢山いて、苦しんでいるということをみんなに知っていて欲しいです。すべて保証されているならまだしも、被害を受けたのに何の保証もなくじっと耐えることしかできない人もいます。子どもたちに健康被害が出ているのも現状です。きっとこれからもっと増えることでしょう。私も甲状腺検査と血液検査を自主的に今年の3月に行いました。この検査もお金がかかるものです。結果は、特に目立ったものはありませんでしたが、半年後また検査しましょうとのことでした。検査の結果には現れていませんが、自覚症状として脱力感、集中力の低下、免疫力が低下し風邪をひきやすくなった、頭痛などの症状があらわれています。これは西宮に避難してくるまでの9ヵ月間に食べた福島の野菜や水、高い線量地域での生活によって起きた内部被爆によるものかもしれません。今や内部被爆は福島の問題だけではありません。汚染された食品が流通して、関西にもやってきています。誰もが知らず知らずのうちに外食している中で食べているかもしれません。汚染された地域だけでなく、全国のみんなが危機意識を持って生活していかなければならないことだと思います。そうしなければ、未来を生きる子どもたちも守れません。誰もが無料で受けられる放射能健康診断も必要だと思います。

震災から2年がたち、年を重ねていくごとにこんなに重大な問題が世間から忘れられていくということを実感し、まだまだ放射能問題で解決されていない事は多く、むしろこれから出てくる健康被害や問題に着目していかなければならないと思うので、絶対に忘れられてはいけないことだと感じました。この放射能に対して、それぞれの人がさまざまな問題をかかえています。母子避難で家族とずっとバラバラで暮らしている人、子どもの健康被害、大人の健康被害、食べ物、環境、住宅、経済面、生活すべてにおいて問題が山積みです。私はこれから子どもを産みたいと思っています。ちゃんと手も足もあって、健康で元気な子どもが生まれてきてくれるか、とても不安です。これらの沢山の問題をどうしていったら良いのか、考えていく必要があります。それぞれ避難してきた状況や経緯は様々ですが、その方々が避難してきたから良かった、それで終わりではなく、今でもそれぞれの悩みや問題を抱え、ぶつかりながら一生懸命生きていることをわかっていて欲しいです。そして避難したくてもできない人たちがいるということも、忘れずにいて欲しいです。

「経済産業省前のテント村の居られた老婦人様へ」

Cさん(県内在住、妻子が県外避難中)
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経済産業省前のテント村の居られた老婦人様へ
母子避難したばかりと聞くと、「逃げてきてくれてありがとう 」 心を込めて私に頭を下げてくれたことが私の心にずーっと残っています。自主避難に否定的な考えの人も多くいるので、心のつかえが取れて気がすごく楽になりました。ありがとうございました。
母子避難中の家族を持つ父より
プロフィール

FnnnP事務局

Author:FnnnP事務局
福島乳幼児妊産婦ニーズ対応プロジェクト(FnnnP)では、原発事故後、小さな子どもを抱えるご家族を中心に、福島県からの保養・避難のサポートや実態調査を行ってきました。同様に、 福島県内の子育て団体と協力し、実態調査を行い、明らかになったニーズに対応してきました。
(公式ブログ:http://fukushimaneeds.blog50.fc2.com/)

※なお、お手紙の掲載にあたりましては、ご本人の了承を得て事務局より連絡し、掲載の最終確認を頂いたお手紙のみを掲載しています。また、お名前や居住地等もご希望に沿い、修正や削除の希望がない限り原文通り(誤字等も含む)、全文を記載しています。

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