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「今伝えたいこと」

うたはさん(県外在住)
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~今伝えたいこと~

今年も花々が咲く季節になり、月日の過ぎた事を実感しています。

2011年3月11日の東北大震災のその年も何事も無かったかのように、東北に 春は訪れ福島でも桜が咲きました。
その桜の花の綺麗さに、私は泣きたくなるほどのせつなさを感じたのを覚えています。

家族で例年のごとく近くの大神宮に「お花見」に出かけ、お花見でしか売らない名物のお団子を桜の花を見ながら食べました。

その桜が咲いた4月当初は放射能による汚染や、それにともなう色々な風評被害、健康への悪影響などが騒がれだし、避難区域や警戒区域以外でも酷く汚染された所が存在することが判明してきた頃でした。

私の住んでいた福島県郡山市は福島第一原発から直線で55キロの所ですが、その郡山市の中でも私の自宅のある街の汚染状況はとても深刻なっていたので、

咲いた桜を観ながら、「来年も再来年もその次の年も、その次も・・・・20年後も30年後も家族で一緒に福島のきれいな桜が見られますように」と心の底から願いました。

桜は何もなかったかのように咲いたけれど、でも私たちは何も無かったかのようには生活出来ませんでした。

あの原発の事故により 私たちの日常は大きく変わってしまいました。


私には3人の子どもがいます。
私たち家族が住んでいた郡山市は、四季折々の豊かな自然に囲まれ、そして水と緑がとてもきれいな街です。
私たちはその街に、子育てのために家を買い、安心して暮らしていました。

東北大震災の後、福島第一原発の爆発事故が起こりました。
爆発事故が起こったのにも関わらず、私たち家族は避難指示もでないし、
大丈夫なんだと、避難は考えませんでした。

私の住んでいた街には爆発の翌日、夕方に降り出した雨により、空から放射性物質がたたき落とされひどく汚染されたといわれています。

当時は地震の影響で断水がまだ続いて、給水車の列に2時間並んだよと言った方。ガソリンを給油する車の列に4時間並んだという方もいます。車が使えないからと自転車で子供と移動した方。学校の体育館が避難所になっていたので、そこへ避難していた子供たちは校庭で元気に走り回って遊んでいました。
まさか見えない放射能が降っているとも知らないで、私たちは生活を送ってしまいました。

もしも、5年後、10年後、20年後。もしくは子供たちの子供、つまりは子孫に放射線の影響が出たらどうしようかと今から不安に駆られます。

子供たちを放射能の危険から守って上げられなかったこと。
「安全だ」と騙されてしまったこと。
なぜもっと早く逃げなかったのかとても悔やんでいます。


私は避難を決めるまで数ヶ月かかりました。
震災直後、テレビや新聞で報道される原発事故の「安心安全」の情報に、私は原発事故も放射能も、どちらの問題もすぐに解決するものだと勘違いしました。

福島県放射線健康リスクアドバイザーの方の講演会の話では「子供を外で遊ばせて良い」「笑っている人には放射線の影響はない」「100ミリシーベルトは大丈夫と」アドバイスしていました。
3号機の大きな爆発事故からまだ10日も経っていない時でした。

4月に入り、家の近所の高校の校庭では高校生らが野球やサッカーの部活の練習を始めました。周りは徐々に普通の生活に戻りつつありました。

数日後小学校の新学期の始業式が行われ、子供たちはマスクをして、肌を露出しないように長袖長ズボン。放射性物質をなるべく付着させないように帽子をかぶりナイロン製のジャンバーを着て学校へ行きました。真夏の暑い日でもその格好で登下校し、真っ赤な顔をしてたくさん汗をかいて帰って来ました。


5月GW明けに隠されていた原発事故の重大な情報が報道されました。「メルトダウンを起こしていた」、「【放射能影響予測】SPEEDIが公開されず情報が隠されていた」などの悲惨な真実が報道され、驚き、「本当に福島は安全なのか?」と疑いの気持ちが起こりました。

それから私はインターネットにて「終わりなき人体汚染:チェルノブイリ原発事故から10年」という1996年に放送されたNHKスペシャルのドキュメンタリー映像を見て、かなりの衝撃を受けました。
そのドキュメンタリーの内容は10年たっても放射は人々から大地と家を奪い続けていて、人体への影響が日に日に酷くなっている事。毎週のように人々が亡くなっていること。白血病や小児甲状腺がんになる子供が増えたこと。
甲状腺に出来た癌細胞摘出の為に首に出来るチェルノブイリネックレスと呼ばれる傷跡。その他の色々な健康被害。
事故当時3才だったという女の子が10年後、がんになりまもなく死亡、悲しみの葬儀のシーンから番組は始まります。

自分の娘と重なり、涙が止まりませんでした。
当時、私の娘がまさに同じ3才。居ても立ってもいられない程、不安に駆られました。私はやっと、どれほど放射性物質の危険な場所に住んでいるのかに気がつきました。それが震災から2ヶ月後の5月の中旬のことでした。

チェルノブイリと同じ事がここ福島で起こっている。

そのような危険な現状なのに、小学校より校庭を6月から授業で使用するとのプリントが来ました。校庭を削ったあと近くの湖の土を校庭に敷き、線量が平均して毎時0.4マイクロシーベルトに下がったからとの理由でしたが、まだ削った土が校庭の隅にあり強い放射線を放っていてとても危険な状態でした。
危険を冒してまで、何故スポーツをしなければならないのか、もはや理解不能でした。

その時に、では一体どのぐらい線量が下がれば校庭に自分の子供を出せるのかと、自問自答した時、たとえ数値が0.1マイクロシーベルトになったとしても、危険な放射性物質がある限り、無理だと思いました。

そんな折り、娘が熱を出し下痢をして体調を崩し、次に長男と次男も熱を出しました。ちょうど季節の変わり目でもあり体調を崩しやすかったのかも知れませんが、私は放射線の影響によるものではないのかと、とても心配しました。

子供たちの体調不慮をきっかけに、自宅の線量が気になり、
放射線を計る機械をレンタルしてくれる所を見つけ、自宅の線量を計り、
目にしたその数値に驚きました。

当時、市で発表されていた空間線量と自宅2階の子供部屋の数値が殆ど変わらない値でした。私の家は木造2階建ての家で、木造はコンクリートに比べて放射線をあまり遮断出来ないのと、2階は屋根に付着している放射性物質のせいで線量が高くなるとのこと。その為に2階の子ども部屋が高い線量になっていたのです。

家の中は安全だと思っていたので家の外と家の中であまり変わらない線量に驚き、そんな中に知らずに暮らしていたことにかなりのショックを受けて、これ以上、子供を危険にさらしてはダメだと避難を決意しました。
安心して暮らせる家や場所を手に入れたはずだったのに、私はまだ住宅ローンの残るその家を残し、「子供を守りたい」一心で福島を離れました。


私の父母はまだ福島に住んでいます。
長年住んできた土地を離れることは出来ないし、避難指示もない。周りのみんなも住んでいると言います。

震災の翌年、私の実家の近所にある公民館で食品の簡易測定が出来るようになり、実家で露地栽培されている「椎茸」を父が持って行き計った結果、数値が1キロあたり数千べクレルあったそうです。
それまでは食品の数値を簡単に計れるところもなく、しかも少しぐらい食べても大丈夫だろうとか、そこまで汚染されていないと思い、椎茸を両親は食べていましたが、計った数値をみて食べないようになりました。

このことにより「危険だ」ということに、やっと両親も気がついてくれて良かったと思いましたが、良かったと同時にものすごくショックな出来事でした。

市民の生活はなんの政策も対策もなされず、危険にさらされている状況であること。そして・・・ 未だに酷い放射能汚染の実態の証明でもありました。
そんな場所に両親が住んでいる。まだ多くの人が住んでいる。たくさんの子供もいる。とても複雑な思いになりました。


私は避難指示の出ていない区域からの「自主避難者」です。
私の周りにいる同じ状況の方々は皆同じ思いで避難を選択しました。
「子供を守りたい!」ただそれだけの思いで、住み慣れた土地を離れるという辛い選択をしました。

私は幸いにして家族で避難できましたが、避難者の中で家族が一緒に避難出来ている人は少なく、母親と子供だけで避難して来ている方が多くいます。

父親は福島に残り、生活のために働き、家族との思い出が一杯詰まった家で孤独に耐えながら、子供の成長を見ることも出来ない悲しい生活しています。

母親は、身よりもない、慣れない土地で不安や淋しさに押しつぶされながらも、懸命に子育てをしています。本来ならば一緒にいるはずの家族がバラバラに生活しています。

知り合いの方の20過ぎた娘さんは「帰りたい」といい、鬱になり、過呼吸を起こし、体が硬直してしまい、救急車を呼んだと。それぐらい精神的にも参ってしまったと聞きました。
うちの子供は「転校するのにお金がいっぱいかかる?」と聞いてきました。なぜ?今の学校が嫌なの?と聞くと、「うんん、嫌じゃないけど、前の学校に戻りたいんだ」って言いました。未だに転入先の学校に親子で慣れなくて、避難者という立場がそうさせている部分もあり、この疎外感はいつまでも消えることはないと辛い気持ちにもなります。
大人にとっても、子供たちにとっても、引っ越しや転校などの精神的な負担はかなり大きく、ふるさとを思い出しては切なさが増すばかりです。


いつになったら福島へ帰れるのか。
いつになったら家族一緒に暮らせるのか。

ふるさとへ帰りたい・・・。でも帰りたいと思うふるさと福島は、原発の事故が起こる前の安全に暮らせる福島です。それは無理な願いで、絶対に叶わないこと。

そんな風に故郷を思うと、絶望しかなく悲しみや怒りでいっぱいになります。
そして、どこにぶつけたらいいのか わからない怒りや恨み。憎しみ、言い表しようのない大きな不安と、色々な思いが込み上げてきて苦しくもなります。

でも人は怒りや悲しみやの中だけでは、苦しすぎて生きていけません。
だから少しでも前向きになろうと必死です。
特に母親は子供に与える影響が大きいので、尚こと必死に前を向こうと努力しています。

そして子供の小さな手を握る度に、 子供の愛おしい寝顔を見る度に、
子供の無邪気な笑い声を聞く度に、子供たちの未来を守りたいと強く思います。

子供たちの笑顔と大切な命を未来に繋いで行くために、
いつまで続くかわからない 不安定な避難生活を私達は送っています。

私達のような避難者を出さないためにも福島の悲劇を繰り返さないでほしい。

子供たちが担う日本の将来がより安全なものになるように、美しく豊かな日本の自然をたくさん残してあげられるように。

どうか、どうか福島の悲劇を繰り返さないでほしい。
それが、福島の事故を経験した私達の切実な願いです。

うたは 2013/05/13
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プロフィール

FnnnP事務局

Author:FnnnP事務局
福島乳幼児妊産婦ニーズ対応プロジェクト(FnnnP)では、原発事故後、小さな子どもを抱えるご家族を中心に、福島県からの保養・避難のサポートや実態調査を行ってきました。同様に、 福島県内の子育て団体と協力し、実態調査を行い、明らかになったニーズに対応してきました。
(公式ブログ:http://fukushimaneeds.blog50.fc2.com/)

※なお、お手紙の掲載にあたりましては、ご本人の了承を得て事務局より連絡し、掲載の最終確認を頂いたお手紙のみを掲載しています。また、お名前や居住地等もご希望に沿い、修正や削除の希望がない限り原文通り(誤字等も含む)、全文を記載しています。

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